アラスカの曙

昭和3年8月15日、大阪市北浜、栴檀木橋南詰に小さな西洋レストランが店を開いた。テーブルはわずか5卓、40坪というささやかさだった。

喰い道楽・大阪の浪速っ子たちは「大阪で西洋料理が流行るはずがない。それにまた、アラスカなんてケッタイな名つけよって…」と冷たい目を向けたという。

だが、いざ、営業をはじめてみると、その味はたちまち評判となり、京阪神の財界人や文化人など名士たちが押しかけ、本格的西洋料理が味わえる大阪唯一の店として、日ならずして「アラスカ」の名は、関西から東京にまでとどろいた。

 アラスカという名前の由来

この店は最初、大阪の大金持ちの志方貞三氏が「アラスカ・ソーダ・ファウンテン」としてはじめたもので、ミルクやアイスクリーム、ソーダ水などをサーブし、今日のスナックよりももっとシンプルな商品構成だった。

また、高級住宅街、国道電車の駅々でもアラスカ牛乳というブランドのミルクを販売。ミルクは豪州産が最高とわざわざ、牛と牧草を豪州から輸入して牧場を作り、ミルクを作っていた。脂肪分の高いおいしいミルクだったのだが、こんな原価の高くつく商売だから、長続きするわけがない。

そんなとき、志方氏は、東京会館で働いていた望月豊作を支配人として迎えた。

彼はこの店を見て「レストランに改造しなければ絶対に見込みがない」と考え、志方氏を説得、そして横浜ホテルニューグランドの料理人であった飯田進三郎を料理長にスカウト。こうして、レストラン「アラスカ」はスタートをきった。

豊作はサービスのプロ。
飯田は当時では数少ないフランス料理の達人。
ここに望月支配人、飯田料理長の名コンビが誕生した。